ウグリチ (Uglich)
地元の言い伝えでは町の創建は937年のことであるが、文献にその名が初出するのは1148年のことで、「ウグリチェ・ポーレ」(角の野原)の名で記されている. 地名の由来は、ヴォルガ川が大きく湾曲する角にあるからと考えられる.
1218年から1328年まではウグリチは小さな公国(ウグリチ公国)の首都だったが、1328年にウグリチ公は所領などをモスクワ大公に売り払った. モスクワ大公国の北の境界の町だったウグリチはリトアニア、タタール、トヴェリ大公国などの軍にたびたび襲われ焼かれている.
ルーシの諸公国を併合しリトアニアやタタールを破ったモスクワ大公イヴァン3世は、1462年にウグリチを弟のアンドレイ・ボリショイに与えた. アンドレイ公の統治下でウグリチは大きくなり、はじめて石造りの建物が建設された. その中でも名高いのは大聖堂(1713年に再建)、生神女庇護(ポクロフスキー)修道院(ソ連時代に解体)、赤レンガの公の宮殿(1481年に完成し現存)などがある.
イヴァン4世(イヴァン雷帝)はウグリチをただ一人の弟であるユーリーに与えた. イヴァン雷帝によるカザン・ハン国征服の際、ウグリチの市民はカザンの町を攻めるために木造の要塞の部材を作り、ばらばらの部材をヴォルガ川の下流にあるカザンへ輸送した. 16世紀にはウグリチは政治的にも経済的にも重要な町として繁栄したが、これを絶頂として町の命運は下り坂へ向かう.
イヴァン4世の死後、1584年に一番幼い息子のドミトリー・イヴァノヴィチはウグリチへ流刑された. しかし1591年5月15日、8歳になったドミトリーはウグリチ公の宮殿の中庭でのどを切られて死んでいるのが見つかった. ドミトリーは当時のツァーリ・フョードル1世の異母弟でツァーリ後継者の最有力候補であった. シュイスキーによる公式の調査ではその死因は事故死と断定された. しかし、フョードル1世の摂政ボリス・ゴドゥノフがツァーリ位を狙って殺したのではという噂が広がった. なお、ドミトリーの死の知らせを告げた大聖堂の鐘は、鐘の音で暴動が起きたことから、「舌(鳴らすところ)」と「耳(釣るところ)」を切って12回のむち打ち刑を行った後にシベリアへ「流罪」となった.
ドミトリーはリューリク朝の唯一の後継者であったため、その死と王家断絶はロシアの宮廷や内政に大混乱をもたらした. この「大動乱」の時代、人々はドミトリーが生きていると信じ、突如出現したドミトリーを自称する者たち(偽ドミトリー1世、偽ドミトリー2世、偽ドミトリー3世)を支援し大公の座に就かせようとした. 大動乱に介入したポーランド軍は、ウグリチのアレクセイエフスキー修道院とウレイマ修道院を制圧し、中に逃れていた人々を殺戮し火を放った.
大動乱の後期に成立したロマノフ朝のツァーリはまず非業の死を遂げた皇太子ドミトリーを聖徒の列に加え、ウグリチを巡礼の地とした. ドミトリーが死んだ場所には、1690年、市が小さな「血の上の聖デミトリオス聖堂」を建てた. 赤いレンガの壁に青いドームの教会は、ヴォルガ川を北へ下る船から今もよく見える. 皇太子の住んでいた宮殿は博物館となり、手にナイフを持った皇太子の像は市の紋章にもあしらわれている.
18世紀前半、町のクレムリにあった聖堂と鐘楼は取り壊され建て直された. 18世紀にはスモレンスカヤ聖堂、コルスンスカヤ聖堂、カザンスカヤ聖堂、ボゴヤフレンスカヤ聖堂などが建設されている. 19世紀に建てられた建築では、1853年に奉献された主の洗礼女子修道院の重厚な聖堂が重要なものである.
ソ連時代にはウグリチの宝石加工工場として始まり宝飾時計会社となったチャイカの工場が有名であったが、現在ではウグリチ工場は閉鎖されている. またスターリンの時期には、ヴォルガ川のウグリチのすぐ上流にダムを築いてウグリチ水力発電所が建設され、ウグリチの郊外は水没した.